山田 方谷 やまだ ほうこく
   

一溪煙雨坦行遊
紅蓼白薇不勝秋
磯邊幸遇舊漁伴
理得蓑衣上釣舟
一渓の煙雨(=煙ったように霞んで降る雨) 坦(=坦々)と行遊(=故郷を出て他郷で旅をする)
紅蓼(=やなぎたで)白薇(=ぜんまい) 秋に勝らず
磯辺で幸遇す 旧漁(=漁師)を伴う
理を得たり蓑衣(=みの) 釣舟の上
32p×138.5p

文化2年2月21日(1805年3月21日)生〜明治10年(1877)6月26日歿
 幕末期の儒家・陽明学者。
 備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)に生まれる。名は球、通称安五郎、方谷と号し、備中聖人と称された。父は五郎吉、母は梶。山田家は清和源氏の流れを汲む元武家の家であったが、方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。
 5歳のとき親元を離れ新見の丸川松隠の元で学ぶ。14歳で母が、翌年父が亡くなり家業を継ぐ。貧しい生活であったが学問への情熱を失わず、この噂が藩主の耳に入り21歳の時、二人扶持(一日玄米一升)を与えられ、藩校有終館で学ぶことを許される。
 23歳から30歳までの間、四回に亘り京都、江戸へ遊学する。江戸遊学では佐藤一斎の門に入り塾頭を務めた。同門に佐久間象山がいたが、方谷が常に論戦を打ち負かした。また、有終館では苗字帯刀を許され、会頭を命ぜられる。32歳で有終館学頭となった。
 45歳で元締役・吟味役を命ぜられ、ここから方谷の財政改革が始まる。幕末の混乱期には苦渋の決断により藩を滅亡から回避させることに成功。藩主板倉勝静が幕府の老中となると、その政治顧問として幕政にも関与した。慶応三年(1867)大政奉還が行われたが、その原文は方谷が作成したものである。
 また、藩校有終館や方谷自身の私塾、明治以降には備前の閑谷精舎(閑谷学校)などで多くの子弟を教え、備中松山藩を支えた人々を育てた。
 しかし、明治維新後は多くの招聘の声をすべて断り、一民間教育者として亡くなった。

推奨サイト
http://www.city.takahashi.okayama.jp/site/koryukan/yamadahokoku.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%96%B9%E8%B0%B7
http://bizgate.nikkei.co.jp/series/006990/
http://niimi.gr.jp/shop/detail.php?cat=spot&id=285
http://bizgate.nikkei.co.jp/article/69910311.html
http://yamadahoukoku.com/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%96%B9%E8%B0%B7%E3%81%A8%E7%82%8E%E3%81%AE%E9%99%BD%E6%98%8E%E5%AD%A6/
http://www2e.biglobe.ne.jp/fujimoto/taka/yamada.htm
http://www.city.niimi.okayama.jp/usr/hokoku/hokoku.html
http://www.kibi.ne.jp/~nisi0830/koukoku.html


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